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萬緑

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萬緑の中や 吾子(あこ)の歯 生え初むる  中村草田男

 私が高校時代に出会った句です。生後4,5ヶ月ほどの乳児でしょうか、緑あふれる大自然の中でわが子の歯が初めて生えた発見とその喜びがあふれています。そこには大自然と幼子の生命力とその力強さとともに、わが子が自然に祝福されているような感動があります。おそらく、当時の私はそんな風にこの句を捉えていたと思います。しかし、今から思えば、「吾子」が気になります。十七音の短詩型の俳句では、わが子は「子」と言えばすみます。あえて「吾子」としたところにも、この句の眼目があるようにみえます。「生まれてくれるだけで親孝行」という言葉もありますが、この句には、手放しに「吾が子」の誕生やその存在がどうしようもないほど嬉しい、そういう実感があふれています。多分、私も人の親となり、それを実感として受けとめ得たということなのでしょうが、始めてこの句を自分のものにできた、腑に落ちたという感覚になりました。

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「草田男主宰の俳誌」

 話は少し変わるようですが、このような経験を積む中で、実際に、なってみなければわからないこと、やってみなければわからないことは確かにあると思うようになってきました。結果が見えているのであえてしようと思わない、する意味がわからないから挑戦しない、結果に自信がないからしないというように、いろいろな言い訳をして新しいことに挑戦しないことがあります。しかし、する前にその結果や意味がわかるはずはありません。する意味や意義は実際にする中でしか見えてこないというのが私の実感です。まあ、これは私が教える高校現代文の大きな主題でもある「生きる意義や意味は、実際に生きる中でしか見いだせない」ということとも関連しているのですが、本学園の「やってみなはれ」にもつながっているのではないでしょうか。また、「孝道」「親孝行」にしても同様で、なにも難しく考えることはなく、定義は「親に感謝し、敬う心」で十分であり、後は実際にそれをする中でその意味は実感されていくようなものだと思えます。
 冒頭の句に戻りますが、吾が子の歯が初めて生えたぐらいのことを手放しで喜ぶ経験を通して、吾が父もまたそうであったであろうことに思いが至る。そういうことも「孝道」の実践、「親孝行」の手始めだといえるのかもしれません。

 (中学校・高等学校 高校3年学年主任 守本 進)