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学級通信3月号

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 2月21日(土),仮校舎への移転が完了した日,高校校舎はその役を終えた。雨漏りがするとか,戸がきっちり閉まらないとか,所々不具合はあったが,いまとなっては,それもまた高校校舎ならではの味と思える。大震災にも生き抜いた校舎54年の歴史を閉じるにあたり,その原点となる落成当時を振り返ってみたい。

1953(昭和28)年,学園中学校が開校した。まだ校舎も完成されておらず,小学校木造校舎の2階2教室を借りて,男子組29名,女子組21名の2クラスで出発した。
 先生の都合もあり,理想的なものではなかったが,基礎学力の充実を期そうと,特に英・数・国について,放課後毎日補習授業を第7時限目に組み込み,中1から実力養成に取り組んだ。そのときの初代校長板倉操平は学園教育を次のように説いている。
itakura.jpg「教育とは火を点ずる仕事である。教師は先ず我が胸の内に聖火を燃やさねばならぬ。その燃えさかる火を,生徒一人一人に点ずる仕事,それを教育という。大小蠟(注:ろうそくのこと)は子どもの持って生まれた天分である。しかし,小蠟と雖(いえど)も燃ゆれば一間を明るくする。大蠟は天下国家を明るくする。燃ゆる火は教師から点ぜられた同じ一つの火である。その人の存在によって,或いは一家を明るくし,或いは一村を明るくし,或いは一県を明るくす,広狭は異なるであろうが周囲を明るくすれば生まれ甲斐ある人生と言わねばならぬ。火を点ずる仕事,其れによりて生徒という蠟燭(ろうそく)を燃え盛る行為之を「立志」という。教育は「立志」を出発点とする。そして一生消ゆることなく燃えに燃え周囲を明るくする。
 中学入学試験の口頭試問に将来の希望を訊いてみた。中には野球をやって,職業野球の選手になると云う。中には音楽を習って,独唱家になると云う。何れも結構であるが,吾々の若い時代には考えなかったことである。私にも少年時代が有る。中学入学のため初めて他郷に旅立つ時,玄関まで送られて,母と別れ行李(こうり)一つかかえて渡船に乗った。船の進むにつれて,我が家の土蔵の白壁が遠ざかる。庭の欅(けやき)の梢が霞んで見える。「立志出郷関」十二才の少年の感慨は今の中学生とは大分違っていたように思う。時代が変わったのであろう。今の中学生の考えが地についてきたと云うのであるか,敗戦で日本の青年が希望を失ったと云うので有ろうか,然し,今こそ少年の真に大望を抱いてよい時代では有るまいか,この敗戦後の新日本の立ち上がり,祖国日本の危期,狂灤と既倒に廻らす,我をおきて人はあらじと奮い立つ人がもう出てもよい時ではないか。青年は燃ゆる火である。胸中烈々の希望を抱くもの之を青年という。之に聖火を点ずる仕事,之を教育と云う。
 アメリカ教育は学校をマスプロダクションの工場と見る。設備を整え,教師という機械を動かし,流れ作業で生徒という原料を送れば規格同一の物品が多量製産せられる。此所では教育技術が尊重せられ,魂の接触とか,人格の感化とか云うことはあまり重要視せらぬ。終戦後の所謂新教育は,上は大学から下は小学校まで,大体官立学校はこのやり方で教育が行われる。私は此の教育に飽きたらぬ。雲雀丘学園は私立学校である。実用品の硬質陶器でなしに抹茶茶碗を造ろうと思う。抹茶茶碗は其の人でなくては出来ぬ,名工の作は他人では真似は出来ぬ,作品には各々其の物の持ち味があり風格が有る。其れには学校を大きくしてはならぬ,学級の生徒を多くしてはならぬ。土質を精査し,其れに適する粘りを加え,焼きを与え,魂をかけて,一つ一つを同一規格でなしに,模倣の出来ぬ作品に仕上げるのである。学園を工場でなしに芸術の場たらしめたいのが私の希望である。吾々時代の中学校には其の校独特の校風があった。日本ばかりでない。イギリスの中学校には其の校独特の真似の出来ない校風を今も持って居る。」
(1953年6月10日『ひばり』第7号)------------《つづく》

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【配布したもの】
 「学級通信3月号」は先週土曜日に配布しました。今日は特にありません。
【提出物】
1.ロッカーのキー 3月7日(土)まで
2.志望大学調査票(Ⅱ) 3月2日(月)まで
3.いわゆる「日記」3月7日(土)まで
4.進研反省点 3月7日(土)まで
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