我が受験の頃(2)
昨日のブログで、「この季節になると悩んでる暇ははない。悩むことが勉強の効率を落とす」と書いたが、自分の高校時代、悩んだ時期がなかったわけではない。悩みだすと、勉強に集中せず悩んでいたりするから学力は思うように伸びない。学力が伸びないから、また悩む、とまあ悪循環が起こってしまう。高校2年の後半から高校3年の9月中旬まで約11ヵ月間、わたしはその悪循環のまっただ中にいた。
悩みの中心は自分の適性についてだった。理系の父親の期待に答えるべく、国立大学の理系、中でも電子工学を目指していたわたしの数学の成績が高校2年の後半で傾き始めた。それまでスイスイとやってきた数学で点がとりにくい。信じがたいことだが、自分より点を取る人間がクラスに何人もいる。これはいかんと努力しても思うように伸びない。ヤバイなと思いながら、それでも努力は続けていたが、その時既にプライドはざっくりと傷ついて、日々赤い血を流していた。
高校3年になって数学の成績はさらに落ちる。起死回生の思いを胸に、夏休みを数学にかけた。ベクトル、三角関数、微分・積分と単元毎に問題集を買い、自力で毎日頑張った。気分転換に英語や地理もやったが、多くの時間は数学に費やした。
で、9月に学校が再開して、数学の授業。今考えたら、もう疲れていたのかも知れない。数Ⅲの授業の最中について行けなくなってしまった。両隣の友達に「わかるか?」と訊くと「わかるよ」という返答。クラスの両隣のヤツにさえ負けるようでは、全国の何人に負けることか。その授業のあと、わたしは文転することを半ば決心した。理系のカリキュラムでやってきた生徒が、そのカリキュラムのまま文系で受験するという、いわゆる「隠れ文転」をやることにした。初めは担任にも親にも言わず、勉強の力点をシフトした。
その時はもう9月の半ば。今さら物理か化学を生物に換える時間はなく、また数Ⅲの授業もそれまでどおり受けながら、他人に言うと馬鹿だと笑われそうな努力を続けた。判断について悩んでいる時間はなかった。どうにでもなれ。たどりついたところが行ったところ。
その年の入試では生物がおそろしくむつかしく、物理が易しかった。得点調整はない。合格するはずの友達が顔を曇らせて帰ってくる。十二月末の担任面接で半ばあきれられながら、物理で文系を受けたわたしの運の強さに周囲はあきれた。
それともう一つ、わたしは入試前日まで数学を捨てずにやり続けたが、たとえ気休めでも読んでおこうと開いていた問題集の、前日午後7時頃に読んだものが数値だけ変わって、そのまま出た。宝くじに当たった気分だった。
9月以降、悩まなかったことがこの結果につながったと勝手に解釈している。
今日は1月19日、大学入試センター試験第1日目です。天気は上々です。しかし風がない分しのぎ易いとはいえますが、冷え込みはかなり厳しい朝です。会場は男子は関西学院大学、女子は園田学園女子大学です。私は激励のため関西学院大学に行ってきました。8時半ともなれば、正面玄関には横断幕(ある横断幕には「めざせ9割!」と書いてありました)を掲げた高等学校の先生方、予備校の先生方、大学の職員の人、大学入試合格後の一人住まいを当てこんだワンルームマンション、アパートなどを斡旋する不動産関係のパンフレットを配るアルバイトの人、交通整理の人、等々でにぎわっている中を受験生たちが通過して行くのですが、本校は高校1年G組の諸君が学園旗を掲げて待ちかまえ、三々五々通過していく本校の高三の生徒諸君に縁起物の「キットカット」とか携帯用カイロを渡しながらエールを送ったりしました。エールを送られた高三の諸君は、思いがけず敵地に味方を見付けて喜色満面といった人もいましたが、大方は、男子のせいか、照れたように伏し目がちに通り過ぎて行きました。後輩たちに激励されることは予期していなかったようです。
9時30分から公民を皮切りに地歴・国語・外国語の順に行われるので、みんな入場したのを見計らって良い機会だからキャンパスを見学させてもらうことにしました。受験会場を確認しましたが、受験生を呑み込んだ会場は外から見ると無人のように静まりかえっていました。その後キャンパスの中心部をグルリと廻りましたが、キャンパスを離れる前に記念の写真を1枚撮りました。集合写真はその時のものです。