学校ブログ

卒業生~母校は母港になる

No.128(30期)のびのびと育った、あの6年間

2026/09/01

小学5年生の頃、「今日からこれを勉強しなさい」と、算数「自由自在」の分厚い参考書を母に渡され、一人で受験勉強を始めました。

そうして一人で机に向かった受験のあと、思いがけず私を迎えてくれたのは、とてものびやかな場所でした。中学・高校の6年間は本当にのどかで、楽しい思い出がたくさんあります。

無事に中学へ入学し、隣の山本駅から通学していました。電車に乗りそびれて鉄道脇の小道を走り、ギリギリセーフだったこともあります。娘の通学時間に合わせるつもりのない母は、お弁当を靴箱に配達してくれることもあり、時には「さっきお母さんに弁当渡されたぞ」と、担任の合田先生からお弁当を受け取ることまでありました。

食堂は、今もまだあるのでしょうか。「うどんを4杯食べたらおごってあげる!」と言われ、本当に4杯たいらげた思い出もあります。

高校のオーストラリア海外研修では、朝4時頃に起き、ホテルの朝食前に川井さん・長谷川さんとの3人で、メルボルンの町を勝手にバスで自由散策したりもしました。今思えば、なかなかの自由人ですね。

先生たちとの距離も近く、中井校長先生が新任でいらした頃、高校3年だった私たちは、おしゃべりや勉強の質問をしに、よく職員室へ足を運んでいました。大学の合格実績を、椋木教頭先生が一人ずつ、学部ごとに紙に書いて壁に貼ってくださっていて、自分の名前も並べて書いてもらえた時は、とても嬉しかったです。

同級生には、おサルさんのようにやんちゃな男子——中井校長先生いわく「スター」生徒——がたくさんいて、話題に事欠かない6年間でした。プール横の小さな川は、今もあるのでしょうか。そういえば、落ちましたね(笑)。当時はろくに話したこともなかった「スター」生徒の同級生とも、同窓会ではワイワイと楽しくおしゃべりでき、最近ではその集まりをとても楽しみにしています。もっとも、こうして振り返ると、私もなんだか十分におサルですね。

当時はバックパックでの海外旅行が流行っていて、同志社大学法学部政治学科に進学してからは、アルバイトをしては、たくさん旅に出ました。大学2年でインドとヨーロッパを旅した際には、アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)に内定していた慶応の先輩や、韓国オフィスの先輩に出会いました。「将来、受けてみたら」と勧められたのがきっかけで、その後、同社に就職。厳しさも楽しさも盛りだくさんの4年半を過ごしました。そして、その旅で知り合った夫と結婚し、長くアメリカで暮らすことになりました。

アメリカでは、ハーバードの先生のところへご挨拶に伺ったことがご縁で、その研究室にパート勤務したこともありました。その後は長らく勤めに出ていませんでしたが、4年ほど前から、友人の紹介で東京大学生産技術研究所の研究室秘書をしています。かわいい大学院生や留学生たちに囲まれ、にぎやかな毎日です。

これまでの人生には、心の強さが必要だった時も何度もありました。それでも乗り越えてこられたのは、中学・高校時代にのびのびと育つなかで培われた、自己肯定感のようなもののおかげだと思っています。何度荒波に出ても、また帰ってくることのできる母港——母校とは、私にとって、まさにそんな場所でした。

この度の寄稿のおかげで、キラキラとした青春時代を、久しぶりに思い出すことができました。とてもよい経験をいただき、ありがとうございました。

*(添付の写真) 娘と息子からの誕生日カード、私の宝物です。

淺原紀子(旧姓 白銀)(1988年卒業、30期)

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