
卒業生~母校は母港になる
No.111(17期)理科系学生に必要な「技術としての語学力」
2025/06/16
理科系学生に必要な「技術としての語学力」〜「紛れのない」日本語を書いてみよう〜
私は島本宗祐先生の影響から化学の専門家を目指して愛媛大学理学部化学科に進学しました。修士課程修了後は助手として大学に残り、その後は京都工芸繊維大学で化学系学生の教育と研究に携わりました。私が指導した学生の多くは化学と物理に秀でていますが、英語と国語には苦手意識を持っています。彼らと一緒に物理化学分野で研究した経験と私の体験から、理科系学生が大学で獲得すべき「技術としての語学力」についてお話しします。
私が大学に入学して間もない頃、英語の講義で文学部系の先生が興味深いことをおっしゃいました。「理科系学生は技術としての英語を生涯活用できるから幸せである」。これは、印象に残ったのですが、その真意は分かりませんでした。大学院に進学して自分で英語の論文を書く段になって、はじめて技術としての英語に直面しました。当時の恩師から「日本語は主語が曖昧でも通じるが、英語はそうはいかない、英文では主語の配列が論旨である」と指摘され、「一度、日本語で書いてみよ」と勧められました。残念ながら日本語でも論文の論理構成は不明瞭でした。日本語で論旨が整わない段階で英作文に挑戦するのは無謀です。主語と論旨が明確な日本語は英語に親和性が高く、英作文も幾分かはスムーズに進みます。この経験から理科系の論文を書く技術としての英語は、読者に誤解されない「紛れのない」日本語を書く能力を基盤とすることが理解できました。
在校生諸君が現代文の受験対策で「紛れのない」理科系の文章に接する機会は限られています。その理由を少し具体的に考えてみます。理科系の文章は誰が読んでも同じ意図が伝わるように書かれているので、「下線部①について、著者の意図を記せ」のような設問は成立しません。それならば、「下線部①について、著者が提案した仮説の妥当性を評価せよ」の設問はどうでしょう。この解答には仮説に関連する専門知識が必要なので現代文の範囲から逸脱します。これが理科系の文章は現代文の問題文に適していない所以です。誤解してほしくないのですが、文学作品が紛れの多い文章であると指摘しているのではありません。文学作品は文脈で捉えると作者あるいは登場人物の意図や心情が必ず読者に伝わるように書かれています。文学作品では「下線部①・・・」のヒントになる文章や表現は文脈に隠されているので、それを正確に読み取る練習が受験対策の主目的です。
次に、理科系指向の諸君は、いつ、どのように「紛れのない」日本語を書くトレーニングを受けるのか、簡単にお話しします。理科系学部、学科に進学した諸君は4回生になると卒業研究のために研究室に配属されます。諸君を研究室で待ち構える指導教員は英語および日本語で論文を書く「技術としての語学力」の専門家です。研究室に所属した諸君は、否応なしに様々な原稿を日本語あるいは英語で書くことになります。たとえば、定期的に開催される研究相談会の報告書、研究成果を学会などで発表するための要旨原稿などです。さらに、卒業および修了時には数十頁の卒業論文あるいは修士論文の提出が必要です。諸君の文章が世に出ても恥ずかしくないよう、指導教員は丁寧かつ徹底的に原稿を修正しますが、その過程が「紛れのない」日本語を書くトレーニングなのです。
まず、諸君が苦労して準備した草稿を担当教員に提出します。しばらくすると赤ペンでズタズタにされた修正版が戻されます。このとき、指導教員はこう云います。「何が言いたいのか、かろうじて分かるが、読みにくい。もういちど推敲するので修正版を印刷するように」。ここで、「推敲」とはわかりやすい文章を目指して何度も書き直して苦心することです。修正したはずの原稿も赤ペンでボロボロに修正されますが、教員が諸君に代わって原稿を書くことはありません。延々と続く推敲に諸君は辟易するでしょうが、次第に赤ペンの入る余地が無くなります。数日後、諸君が苦心した草稿の文案は跡形もなく消失して、論旨が明確で読みやすい原稿が完成します。最終稿で目を引くのは接続詞です。接続詞が適切に配置された文章では文脈と論旨が浮き彫りになります。納得するまで文章を推敲する技量が「紛れのない」日本語あるいは英語を書き上げる「技術としての語学力」の本質です。
私もこの寄稿文を準備するために幾度となく推敲を繰り返し、諸君が目にしている最終稿は第8版です。その間に大学の友人、同級生および卒業生と「技術としての語学力」について議論しました。皆さんは口を揃えて「文章を推敲する技術は一生モノで、業種、職種にかかわらず必要で、大学で学ぶ専門知識よりも重要である」とのことです。また、企業などで重要な職責を担う人材は、理系、文系を問わず、例外なく「紛れのない」日本語あるいは英語を書く術を修得しています。つまり、在校生諸君が社会で活躍するための基礎学力として「技術としての語学力」は不可欠であり、その技量は主に研究室で培われるのです。
残念なことに、最近10年で推敲が出来ない学生が増えました。彼らは自分で書いた日本語を点検する意識が低いうえに、これまでに推敲を受けた経験が乏しく、研究室でのトレーニングに馴染めないようです。どうやら、諸君が研究室で正確な日本語を書くスキルを習得するには準備が必要なようです。たとえば、英文和訳した日本語の推敲を身近な先生にお願してみてはどうでしょう。もちろん、可能な限り自分で「紛れのない」日本語を準備するのが肝要です。日本語の長文を要約するのも正確な日本語を書く練習として有効です。「紛れのない」日本語が書けるようになれば、英語と現代国語だけでなく記述問題の正答率も向上するので一石二鳥ですね。諸君が理科系学科の研究室で「技術としての語学力」を修得し、生涯成長を続ける人材として飛躍することを期待しています。努力は必ず報われます。
最後に、在校中に私の英文和訳の日本語を赤ペンで丁寧に推敲して頂いた大富純子先生に謝辞を述べて拙稿を閉じます。
田嶋邦彦 (17期、1975年卒、京都工芸繊維大学名誉教授 (理学博士))


左→2025年3月 桜の松山城にて、右→2024年8月 立山山頂にて
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