学園ブログ

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常務理事便り

2020年03月05日

「東日本大震災から9年を来週に迎えて ①運命の非情を知る」

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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東日本大震災から来週の11日で9年目を迎えます。まだと、もうが交錯しますが発生当日私は、東京赤坂のサントリービルの8階で営業会議をしていました。ホワイトボードの前で女子社員が発表していましたが、女子社員の座っていた椅子が突然「ツツーッ」と斜め後ろに滑るように走ったかと思うと大揺れが来ました。この椅子の動きはいまだに鮮明に覚えています。

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 新入生を待って「さくら草」が満開
テレビで速報が流れ、とてつもない地震が起こったことがわかりました。その後はあの悲惨な映像が、固唾をのむ私たちのまえに間断なく容赦なく映し出されました。当然その夜は自宅に帰ることはなく、ほとんどの人が会社で一夜を明かしたのでした。




濁流に流され大海に飲まれ亡くなられた方は1万8千人を越えました。国内ではあまりの惨状にテレビでは報道できないシーンが数多くあり、外国の報道の実態を教えてくれる人もいました。

私は震災の翌月末、新幹線の再開と同時に東北に入り、仙台の南、名取から海岸沿いを岩手県・陸前高田まで3日間かけて北上しました。私がサントリーにいたころ、東北を担当しこの地には、お得意先や友人知人が多かったのです。トラックに飲料を積んでお届けしました。

震災後1か月が経過していましたが町並みはさながら空爆を受けた後のようでした。至るところにがれきの山が積み上げられ、大型の漁船が何隻も陸上に打ち上げられ、また乗用車がビルの屋上に乗っかっている信じられない無残な姿も目にしました。全校児童の7割、74人が死んだ大川小学校も訪れ、ご冥福をお祈りしました。

見舞った方の話で心を痛めたのは生死を分けた運命の非情さでした。濁流で手を差し伸べたが手をつかめた人とつかめなかった人、避難するとき気がかりで家に戻った人がなくなってしまったことなどでした。生死を分けた境は一体どこだったのでしょうか。人生の不条理が身に沁みましたが、一方では明るく語る方が多く、逆にこちらが元気付けられる場面もありました。

-このブログは次回に続きます。-
(2020.3.5)