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2019年08月30日

往復書簡⑨「徳を積む人でありたい」大森先生のお手紙の続き

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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大森先生へ
朝晩は少し涼しくなったかなと思ったら天候不順で今朝(8/28)は北九州地方で豪雨のようです。
小学校は夏休みが明け、元気な声が学園内に戻ってきました。夏休みの間、小学校の校舎が改装され、児童は新しい教室で気持ちを新たに勉強に励みます。子供たちの声は本当にいいものです。夏休みに家族で楽しく過ごした思い出などを聞くとこちらも喜びをおすそ分けしてもらった気持になります。

一方昨日は大森先生もご存知の「中期経営計画会議」が開催されました。これは学園幹部が集まって学園の現況を把握分析し、中期の方針を策定しようとするものです。丸1日かけて議論を戦わせます。今回は特に幼稚園と小学校の連携強化について話し合いました。

さてお手紙ありがとうございました。興味深く拝見しました。ところでタワーの最上段に立たれているのが大森先生ですね。なかなかの勇姿というか見事なものです。御髪も健在で学園事務局の職員は誰も大森先生とは信じられないようでした。

前置きはこれくらいにして「お手紙の続き」を掲載します。大森先生からは適当に短くしてくださいとのことでしたが原文のままにします。


<人事を尽くして天命を待つ。数字を追わない。数字がおのずからついてくる生き方を>
前回の続きで、進路指導をするときの私の精神の指針になっている事は、姉妹校で高校3年生を担任した時の大先輩(M先生)の姿です。
 M先生は、私がまだ26歳の時、すでに60歳を超えておられる国語の先生で、私の隣のクラス、つまり高校3年1組(中高一貫のクラス)の担任をされておられました。私はその先生のクラスに少しでも負けないようにと、ある意味ライバル意識を燃やしていました。早稲田大学の合格発表があったとき、3年1組に大差をつけられ、悔しい思いをしているとき、「よく頑張ったのに残念だったね。でも慶応大学は良かったし、これから国公立大学だから後期まで頑張っていきましよう」と言われましたが、私は妬みがあって、素直にその励ましの言葉を受け取っていませんでした。共通一次試験が終わり、いよいよ二次試験の当日になりました。共通一次試験の時は全員同じ会場でしたので教員も応援に行ったのですが、二次試験の日は受験校がみな違うため、我々担任は授業がないので、後期試験の準備をするか、卒業式の準備をするぐらいで、生徒の健闘を祈りながら職員室の自席で時間を過ごす程度でした。
 しかし、朝礼が終わってしばらくすると、隣の席のM先生がいらっしゃらないのです。30分近くたっても帰ってこられないので、不思議に思って教室を見に行くと、M先生は3年1組の教室で、清掃をされていました。丈夫な木でつくられた机と椅子がくっついたとても重い机を小柄な老人先生が1つ1つもちあげては教室の一方に運び、綺麗に床掃除した後は、机をもとに戻し、机上を雑巾がけしながら、何かぶつぶつと言っておられるのです。私は手伝おうとはせず、何を言っておられるのか聞き耳を立てていました。それは、そこに座っている生徒一人一人に励ましの言葉だったのです。『1組の生徒と先生のすこぶる良く、そして生徒の頑張りはこのような隠れた祈りの気持ちからだったのか』と思い、先生も生徒も良いからこのようなことができるのだろうと、より一層ねたむ気持ちになっていました。そんなことを思いながら陰に隠れて見ていると、M先生はなんと、私のクラスの教室に入られたのです。そして、1組でされたのと同じように机を送り、床掃除して、机上を雑巾がけしながら「A君、頑張れよ。大森先生が君に注意されたことを思い出し、落ち着いてしっかり問題文を読むんだよ」。一人一人の机に祈りの声をかけられたのです。わたくしは恥ずかしながら、陰に隠れてじっとその様子を見ることしかできませんでした。M先生に負けたくないとか、勝ち誇りたいとか思っていた自分が恥ずかしくなり、その時からです。M先生とともに頑張ろうと思ったのは…。自分のクラスの生徒はもちろんですが、M先生のクラスの生徒の成功を心から祝福できるようになりました。受験結果も素晴らしいものでしたが、勝った、負けたではないのです。妬みや嫉みからは決して成長はできないし、幸運もめぐってきません。M先生のように徳を積む人でありたい。結果を追い求めるのではなく、結果がついてくる人になるような生き方をしよう。生徒に安心感と凛とした雰囲気を与えられる、温かみのあるM先生のような教師こそが本当の進学校の教員なのだと教えられました。それからは、高校3年の授業を担当したり、進路指導部長となっても、数字を追い求めるのではなく、生徒一人ひとりが最後に喜ぶようにする、誰も見ていないところで自分の出来ることを精一杯しようと心がけました。二次試験当日、ひそかに掃除をするということは、ゲン担ぎではなく、常に初心を忘れないために退職の年まで行っていました。
 生徒の学力は驚くほど伸びるのです。中高一貫の生徒の学年主任をした時のことですが、中学1年生時全教科とも成績が最下位近かったが基礎英語のリスニングだけは良かった生徒が理系に行きたいと言った時、その当時英語でリスニングを入れているのは東京大学だけだったので、「君は、神戸や大阪大学ではなく、理系でリスニングがある東京大学が向いているのでは・・・。」といった一言で、彼はそれを信じ、模試ではほとんどE判定だったにもかかわらず、東京大学理Ⅰを受験し、見事現役合格を果たしました。教育に処方箋や薬はありません。言葉一つで生徒の能力を伸ばすことも殺すもあることを教えられたのです。これ以降、私は生徒の進学指導で無理とは絶対に言わなくなりました。「無理」と言うのは、生徒の進路指導を放棄したといっていることなのですから…。中江藤樹という超優れた学者が、記憶力も集中力もほとんどない大野了佐を見捨てることなく教え続け、一人前にされたことから考えると、まだまだ無知な自分が、隠れた能力を持っている生徒の一面しか見ないで「無理」なんて、傲慢なことは言えないと教わったのです。


 岡村常務理事は上司に鍛えられたと思われたことはございますか?企業は教育現場と違ってもっと厳しいものとは思いますが、どのようなことがおありでしたか?また、営業本部長として部下を育てられたことで、何か思い出に残るようなことはおありだと思います。よければ、ご紹介いただけませんか?老齢になり、若い人を育てる立場になってきましたので、参考にさせていただきたく思います。

(2019.8.28)

2019年08月28日

往復書簡⑧「生徒を信じ、生徒に本気」大森先生の返信

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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岡村常務理事へ

 お手紙ありがとうございます。いつも興味深く拝読させていただいております。
岡村常務理事が「サントリーに入社したのは全くの偶然で、サントリーの役員になり、そして現在雲雀丘学園で常務理事になれたのも運以外の何物でもないと思っています。」とのこと、本物の方ほどそのようにおっしゃいますね。「運」という字は「運ぶ」と読めるように、足を運び、手を運び、心を運ぶという努力の積み重ねの結果、「運」が来るのでしょうね。奇跡を起こしておられる方々は、みなさん、感謝、謙虚、報恩の精神を持って生きておられるので、文学者でシスターの鈴木秀子さんが書かれている本のタイトル「奇跡は自分で起こす」のだと思います。
 さて、「進路指導の道に進んでいった原点は何か、卓越した指導力を発揮するようになったきっかけは何か。」とのご質問ですが、卓越した指導力などはありません。生徒が努力して奇跡を起こしていったのであって、私は務めた学校の先生方や生徒達によって、教えられたことばかりを伝えているだけなのです。少し長くなりますが、その体験をお話しいたします。長くなりますが、よろしいでしょうか?
 進路指導の道に進んでいった原点はというと、最初に勤務した学校が兵庫県の私立の進学校だったから、否応なしに進学指導をしなければならなかったのです。その学校は、当初、近隣の公立のトップ校の併願校で、公立高校を落ちた生徒が来ていました。その生徒たちを3年間しっかり鍛えて、国公立大学に進学させることが目標でした。私が赴任した当初は、模試のデータを作成し、いろいろな地区の公立トップ校と比較もするのですが、平均偏差値も度数分布もうらやましいほどでした。負けん気が強かったこともあり、何とかこの差を縮め、できれば勝ちたいと思い、まずは良い授業をしよう。さらに、近隣の国公立大学の過去問を調べ、その傾向を分析し、対策を授業に組み入れようとしました。しかし、焦ってもなかなか成績は上がりませんし、学力の低い生徒が足手まといのようにも思っていました。そして、学校が良くなるためには、もっと成績の良い生徒を集めなければと、考えていました。また「受験だ、もっと勉強しないと落ちるぞ」等と脅しましたが、いくら言っても、2年たっても成績が大きく上がるものではありませんでした。
 大きな転換点になったのは、出向した姉妹校で初めて高校3年を担任した時でした。

<出向した姉妹校で高校3年を担任した時の運動会の応援合戦:この生徒達のために>
私が私立校教員に就職して3年目に、姉妹校へ出向するように命ぜられました。26歳の時です。前年は本校の高校1年生の担任でしたが、その継続ではなく、姉妹校の高校2年2組の担任を仰せつかりました。その学年は姉妹校の4期生で、高校2年1組は初めての中高一貫コースとして挙がってきた生徒たちのクラスで、この学年の進学成績が姉妹校の命運を握っている重要な学年でした。2組は、外部から入試で入ってきた生徒達で、高校1年時、生徒部長と英語科の主任がそれぞれ別々に担任されていたクラスを一つにし、55名の生徒からなるクラスでした。なぜか私が担任だったのです。それだけではなく、理科の教員の中では私が最年少にもかかわらず理科主任で、さらに、今まで生物を教えておられたM先生は寮監になり、私が中学1年から高校3年までの生物分野を一人で教えるようになっていました。その当時は、試験はロウ原紙にガリ版で書き、輪転機で印刷するので、中1から高3までの生物6種類と中学3年の化学の、計7種類を担当しましたので、気の休まる時はありませんでした。私は命令されたままに対応していましたが、担任、理科主任、そして一人で生物を担当することになったのが、姉妹校の先生方には奇異に映っていたのでしょう、5月の1泊の新任歓迎会で、「お前だけは許さんからなぁ」「どれだけ進学成績を上げるか楽しみや」と・・・・。針の筵に座っているような感じでした。それでも、与えられたことに感謝して、1年間それなりに頑張り、高校3年の夏にはクラスの成績も上がってきて、東京大学や京都大学を目指せるぐらいの生徒達も出てきました。その多くが寮生でした。そんなある日、寮監が我がクラスの寮生数名の引き出しから小さなウイスキー瓶が見つかったと連絡が入り、生徒部長ともいろいろと相談しましたが、彼ら全員退学処分となってしまいました。彼らの中には学級幹事(委員長)もいて、成績も我がクラスのトップレベルでした。クラスの生徒からは、自分のクラスの生徒を守れない無力な担任だとののしられ、先生方からは生徒管理もできない教員だと非難され、家庭では第一子の出産のため妻は里帰りしているときでしたので、一人情けなさに打ちひしがれる思いで過ごしていました。9月の体育大会ではクラスごとの応援合戦があるのですが、クラスはバラバラ、私に対しては不信で、最初の応援合戦の出し物は、決して人様に見せることができない内容のものだったので、それはクラスだけでなく、学校の恥と思い、大反対しました。「生徒も守れない担任が、我々が自由にできる応援合戦に口だしする権利などない」などと言われましたが、「それなら、学園長のところに行って、大森を担任から外すよう頼んで来い」「僕が目の黒いうちは、決して認めない。このような出し物をするなら、高校3年2組の応援合戦は辞退すると、生徒会に言いに行く」と…。「こんなつらい時だからこそ、みんなで力を合わせてほしい。」と言いましたが、生徒から出てくる案は踊り狂って死ぬというようなものでした。最終的には、「先生も出場すること、体育大会前日に何をするか伝える。気に入らなければ辞退するといってもよい」とのことで、前日まで何をするかわかりませんでした。実際は、組体操で、最後にタワーを作り、その上に僕が乗って、巻物を垂らすというのです。何が書かれているかもわかりませんし、生徒と激しく言い合っていたので、タワーを作って上から落とされると感じました。出産直後の妻でしたが、この時だけ、私の勤務先の体育祭を見に来るように伝えました。

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卒業アルバムに載っていた写真をスキャナーで取り込んだものです。
 そして、体育大会が始まり、午後に応援合戦です。3年1組は水戸黄門を演じ、過去3連覇していました。最後が私のクラスの応援合戦、組体操でした。帆掛け船やピラミッド、そして最後にタワーです。1段目、2段目の生徒が立ち上がるのですが、まるで私を振るい落としてやろうとするかのような迫力です。私は落ちまいとそろそろと立ち上がったのですが、次の笛で巻物を垂らした時、巻物は地面につかず、その反動で私は前のめりになりました。巻物を離して飛び降りればまだ何とかなると思いましたが、ここで手を離せば私の負けだと思い、このまま巻物をもって地面に落ちてもいいと、覚悟しました。その情景は今も鮮明に覚えています。その時、だれの手かわかりませんが、数名の手が私の足をぐっと持ってくれたのです。それで私は助かりました。無事組体操が終了し、なんと、私のクラスが応援合戦で優勝したのです。私の命は、生徒によって救われました。その時からです。もう、どんなことがあっても、いかに先生方とけんかしても、生徒を守ろうと決意したのは…。大学受験校を決める時、学園長からは、偏差値を見て合格できそうな大学を受験するよう指導を受けましたが、生徒はやはり行きたいところがあったので、「学園長に嘘をつこう。その代わり、不合格なら君も僕も学校をやめよう。」と一人一人辞表を書いて、出願しました。そのような生徒たちは、なんと、見事に志望校に合格していったのです。
 模試の成績が良いとか、悪いとかはすべて生徒の過去の事なのです。生徒の大学進学は将来のことですから、今、現在どう充実した過ごし方をするかで将来は変わるのです。成績の低い生徒に対して教師が諦めたり、大学進学は無理だと思うのではなく、一人一人の生徒を信じ、生徒のために本気になって指導すれば、生徒は必ず良くなっていくことを生徒から学びました。本気になった生徒たちは、本当に強くなる。そして、学園長があえて、自ら壁になってくださったその深い思いを、後になって知りました。進路指導の根本を、身をもって教えていただいたのです。これが私の進路指導の原点となりました。
 この年、もう一つ進路指導で大切なことを、隣のクラス(高校3年1組)の担任の先生から教わりました。それは、進路指導する人間の心の在り方と言えるかもわかりません。
それは、次回、お送りします。

(2019.8.28)

2019年08月23日

往復書簡⑦「運を味方に」大森先生への返信

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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大森先生へ
お手紙ありがとうございました。人間大森としての原点がここにあるのだということがよくわかりました。今生きていること自体が偶然の結果であり、進化をし今日ある生物学上の人間も数々の偶然のたまものように思います。こちらは大森先生の専門ですね。

「生かされた」という言葉を聞いたとき、すぐに頭に浮かんだのは2011年の春のセンバツです。東日本大震災が発生した直後の大会であり開催が危ぶまれていました。開会式の宣誓に立った岡山創志館高校のキャプテンは「今生かされている命に感謝して全身全霊で戦う」と宣言しました。私はこの宣誓を聞けただけでもこの大会を開催した価値があるとこのブログでも書いた記憶があります。「生かされている」・・・、この言葉を実感できる人は心が満たされていくのではないでしょうか。今もあの宣誓のシーンを思い出しますが、恥ずかしながら思い出すたび涙が出てくるのです。

「手のひらに太陽を」という歌が大ヒットしたことがあります。「僕らはみんな生きている」という歌詞がありますが、こちらは「生きている」とポジティブです。これでなくてはとも思いますが、その人の人生経験によって受け止め方も全く異なるのだとつくづく思います。
「生かされて生きている」「生きて生かされている」。なんだか禅問答のようになりました。

サントリーに入社した経緯をおたずねでした。全くの偶然です。私は応援団にいましたが、体育会の幹事長が友人で、彼がサントリー希望で願書をもらっていました。ところがゼミ旅行と重なり、使わなくなった願書で私が応募したということです。私はというと近畿日本鉄道と日立製作所に応募し合格しました。近鉄は学生時代、休みになると近鉄百貨店の外商部でアルバイトし近鉄の方と親しくなっていました。日立は応援団の先輩が多くいて誘っていただきました。普通ならこのどちらかだったと思います。しかし一番関係の薄いサントリーに入社してしまったのです。「人生下駄を履くまでわからない」と言いますが全くその通りだと思います。

ついでに企業での、俗にいう出世について申し上げますとこれはもう運の塊のようなものです。サラリーマンの酒場談義で部長以上の昇進は運と言いますが私も同感です。役員ももちろんそうです。社長、とりわけサラリーマン社長はめぐり合わせでなる場合が多いのではないでしょうか。私自身、サントリーで役員になり、そして現在雲雀丘学園で常務理事をさせていただけるのは運以外の何物でもないと思っています。

ところで人生は運だと言ってしまうともう何もしないのかということになります。そんなことはないのです。運を味方にするのです。巨人V9時の監督川上哲治氏は(古い!)「運も実力のうち」と言いました。運を招くすべはいろいろあり、味方にできると思っています。

好き勝手なことを申し上げました。さて大森先生の人生での原点はお聞きしました。やはり読者が知りたいのは先生としての原点、先生は進路指導の道に進まれ、卓越した指導力を発揮されたのですがそのきっかけは何だったのでしょうか。

(2019.8.23)

2019年08月22日

往復書簡⑥「『天に生かされたと思った瞬間』大森先生からの返信」

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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岡村常務理事へ
お手紙拝見しました。
営業の最前線で戦うということがどんなものか、ほんの一端でしょうが改めて知らされました。まさに企業戦士、日々、食うか食われるかの戦いをされたのだと思います。確かにビール4社のシェア推移をみると、キリンとアサヒ、サントリーとサッポロは見事な逆相関を示しておりそのことを如実に示していると言えます。

さてご質問の「富士山の話」です。話せば長くなりますし、個人的な話で読まれる方のお役に立つかどうかはわかりません。しかし常務理事からのご要望ということに甘えて書かせていただきます。


私は、大学院2回生の時、「生かされている。」と思う出来事がありました。その時から、天が私に何か他人のために役に立つことをするようにとのメッセージなのだろうと思うようになりました。もし、私が不要になったら、その時は、偶然の交通事故か病気、または、ありえないような、例えば隕石が当たるかして、死ぬだろう。だから、今からは、できる限りのことをして、過労になっても、天が私を生かして何かをさせようと思ってくれているうちは、死なないだろうと思うようになりました。
 その大学院生時代の体験とは、若気の至りなのですが、大学院の研究の件で教授に嫌われてしまいました。教授は私の大学院時代、ご病気で2年間ほど入院されていて、教授から指示された研究をしている中で見つけた現象が、すでに発表されていたことと異なっていたので、それを調べたいと言った時、不要と言われました。しかし、教授が不在でしたので勝手に様々な方法で調べ、発表されていたことが誤りであることを見つけたのですが、そんな勝手な私を教授は快く思われなかったのも当然です。院生が終われば研究室を出ていくようにと言われました。私はその教授を心から尊敬していましたし、研究するのも好きだったのですが、何か、すべてを失った喪失感と人間不信のような気持になり、今まで研究と称して奪った多くの生物の命、今まで研究に費やしてきた日々がすべて無意味なように思え、絶望し、生きる気力さえなくなっていました。
 その時、バカな考えなのですが、大学の名誉教授という大学では最高峰の位置にある人に、何の力もない私が勝手に挑戦したようなもので、それは日本で一番高い富士山に登山経験もないものが挑むのと同じだと思ったのです。翌日、研究室と下宿をきれいに片づけ、夜行列車で御殿場まで行き、登山バスで富士山の5合目まで行き、そこから頂上まで登って、生きて帰ってきたら先生に謝ろうと自分勝手な価値観で決意しました。
 ところが、10月は登山バスもなく、最後はタクシーで5合目まで送ってもらいました。所持金2万円、5合目までの片道だけで1万円でした。5合目まで着くと、13時に迎えに来てもらう約束でもう1万円はらい、恥ずかしながら、登山道を通らずに無茶な登り方をしました。7合目くらいになると、自分の上ってきた御殿場登山口が雲で見えなくなりました。それでもずんずんと登って行ったのですが、あと頂上まで100m程度まで来た時、アイスバーンで全く上に進まなくなりました。登ってもズルズル滑り落ちるのです。何度挑戦してもダメでした。登れなければ、ここで死ぬまででしたが、ふと横を見ると、だれかがアイゼンとピッケルで登った足跡があるのです。その上を踏むと登れるのです。人の足跡を踏みしめながら頂上まで登っていくうちに、涙が出てきました。自分で何でもできると思っていたが、他の人の力を借りないと、頂上にたどり着くことはできなかったことに気づいたのです。自分はなんと愚かだったのか、大学に帰って先生に謝ろうと‥‥。
 しかし、頂上に着いたのは良いが、タクシーが来てくれる御殿場登山口がどこかさっぱりわかりません。あたりを懸命に探しましたが、標識が見当たりません。タクシーとの約束の時間は刻々と迫っていました。もうダメかと思った時、偶然にも、向こうの方から一人の登山者が上がってくるのが見えたのです。駆け寄って声をかけると、スイス人の登山家でした。つたない英語で、御殿場の登山口を訪ねると、その方は手を引いて標識まで連れて行ってくれました。下を見ると何重にもジグザグになった登山道が見えましたが、それを悠長に下っている時間はありません。絶対してはだめなのですが、見える限界の登山道に向かって一直線に下りていきました。しかし、約束していた時間より30分ほど遅れ、タクシーの姿はそこにはありません。電話もなければ、売店も閉まっている。歩くこともままならない状態になっていましたので、これで万事休すだと観念しました。タクシーの運転手は僕がいないので帰ってしまったのか、それともネコババされたのかなど、人を疑ったりもしました。体は冷え、足は腫れあがり、呼吸も困難になってきたとき、突如下から1台のタクシーが上がって来たのです。約束していたタクシーだったのです。幸いにも、その運転手は私との約束を忘れ、昼食をとった後に手帳を見て、1時間ほど遅れてきてくれたのです。
 あのスイスの登山客と会っていなければ、そしてタクシーの運転手が私との約束を忘れて1時間遅れていなければ、私は生きていなかったのではないかと思います。偶然かもしれませんが、天に生かされたと思った瞬間でした。
 その時から、この命、天命に従って使おうと決意し、教授に謝り、大学院卒業後、大学を去り、まずは独立して生活できるように、その時たまたま募集があった私立学校に応募したところ採用され教員となった次第です。
 岡村常務理事は、サントリーという超優良企業にどのような経緯で入社されたのですか?関東地区の営業本部長というようなトップにつかれるということは、ご自身のご努力はもちろんだと思いますが、いろいろな方とのご縁や幸運、つまり、天に生かされているなって思われるようなご体験がおありだったのではないかと思います。よろしければ教えていただけませんか?

(2019.8.22)

2019年08月20日

往復書簡⑤「『使命感に燃える』大森先生への返信」

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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大森先生へ
お手紙拝見しました。いろいろな人間関係の中で悩まれ、人に言えない葛藤の中で新天地を選ばれたのだと思います。もっともっと言いたいことはあるのでしょうがこれ以上は自己弁護になると思われているのですね。雲雀丘への転勤がどうだったのかはずっと先の判断になるのでしょうか。

「常務理事は会社を辞めたいと思ったことはありますか」という質問でしたが私は思ったことはありませんでした。しかし苦しいことは何度もありました。どうしようもない時がありそんな時は一人、死んだ母親に手を合わせ助けてくれとお願いしたこともあります。好きで選んだ道ですが苦労したのはとにかくビールが売れないことでした。そのビールに明るさが見えたのが2008年、私が入社したのが1973年ですから35年間は赤字経営の事業に命懸けの戦いをしていたのです。ウイスキーはと言えば入社後10年は驚くほど売れました。しかし1983年から売れ行きが下降しました。二つとも悪いのですから会社としては非常事態です。
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          ビール4社のシェアの推移(日本経済新聞記事より)

この状況を打開すべく、会社は日本一の繁華街、銀座に銀座支店を設立しました。初代の支店長には私が選ばれました。銀座にも焼酎の波は押し寄せウイスキーは食われていき、またニッカウヰスキーが伸長するという時代背景もありました。ビールに至ってはアサヒビールがスーパードライで怒涛の進撃をし、まさに四面楚歌、どうしようもない状況に立たされたのです。

そんな中掲げた目標が「月間300回訪」でした。とにかくお得意先、銀座支店の場合は飲食店やクラブ、スナックを徹底して訪問し、サントリー製品を置いてもらおうということです。マーケティング用語で言うと「顧客接点を増やす」ということになります。300回の訪問というのは週に5日働くとして月間20日、1日にすると15店の飲食店を毎日訪問するというものです。昼は昼でお酒屋さんや問屋さんを回りますので、夕方から深夜の訪問でこの数字を達成するのです。とんでもない目標です。

しかし嫌になったことは一度もありませんでした。責任者として先頭に立ちました。メンバーも銀座を我々の手で何とかするんだと使命感に燃えていました。一般に会社や職場が嫌になるのは、人間関係が多いと言われます。本来、仕事というのは明確な目標を持ち、みんなが等しく労苦を分かち合い、成果も等しく配分するなら楽しいものです。雲雀でもこの気概は持ち続けたいと思っています。

ところで大森先生は大学院時代に富士山登山で特異な経験をされています。これで天命を知り教員になるわけですがその話も聴かせてください。
(2019.8.20)

2019年08月19日

往復書簡④「『前任校の皆様にもっと感謝の言葉をお伝えすべきだった』大森先生の返信」

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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前回の私の大森先生への手紙から飛んでしまいお読みの皆様には混乱しますが、以前、大森先生と一献交わした時に、雲雀丘学園に来られた理由をお聞きしたことがあります。先生ご自身はあまり話したくないようでしたが、「人間大森」を知る上でも必要と思い書いていただくことにしました。以下、大森先生からのお手紙です。

 私は31年間、兵庫県のある私立中学校・高等学校で教員として勤務しておりました。そこの理事長はとても教育に真摯であり、厳しい方でもありましたが、その裏には深い生徒に対する愛情があるのを感じていました。私の進路指導の精神と言いますか、根本はそのM学園長、そしてその姉妹校にいらっしゃったM先生、D先生の三人の先生です。皆さん故人となられましたが、私の中では今なお、教育の師で、私はその学校で骨をうずめるつもりだったのですが、M学園長に恩返しと考えていたことができなくなったこと、進路指導での管理職の方との意見のずれや精神的疲れから、退職を決めた次第です。あえて言えば、素晴らしい生徒に囲まれて、生徒をよい大学に合格させてあげたいと思う一方で、あまり進学成績を上げたくないという自己矛盾に陥ったということです。前任校には、私の教員としてのすべてと言って過言でないほど多くのことを学ばしていただきましたので、その時はいやだと思っていたことも、今振り返ると、すべてが僕を強くしてくれる人たちでしたし、出来事だったと思います。それをお話しするのは、どうも自分勝手な解釈になってしまうので、お許しいただければと思います。
 岡村常務理事も、会社を辞めたいなって思われることはございませんでしたか?そんなときは、どうされましたか?私は、その当時副校長だった先生にいろいろとアドバイスをしていただいたのですが、素直に聞くことができず、55歳で退職を決意してしまいました。残っていたらどんな人生になっていただろうとも思いますが、雲雀丘学園での10年間に勝る経験ができたかどうかは、わかりませんので、後悔はしていませんが、前任校の皆さんにもっと感謝の言葉をお伝えすべきだったと、反省しています。
(2019.8.19)

2019年08月09日

スマイル・シンデレラ

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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ゴルフの全英女子オープンで日本人として42年ぶりにメジャー大会を制した渋野日向子さんは海外メディアから「スマイル・シンデレラ」と評されました。偉業を引き出したのがこの笑顔。プレー中も終始、笑顔を絶やさず、表彰式ではその笑顔を爆発させ、世界中の人気者になりました。

私は笑顔こそ最大の武器であると思っています。試合中、苦境に立ってもこの笑顔で渋野さんは攻めの姿勢を貫くことができたと言います。また笑顔のおかげで「気負いがなく伸び伸び、自然体でプレーしていた」と女子ゴルフ界の重鎮、樋口久子さんはコメントされました

日常の生活の中でもまた笑顔は生きていく上でも極めて大切な要素です。道で、廊下で、会場で、どこで人と出会っても相手の目を見て「ニコッ」、これができる人とできない人は大きな違いが出てきます。「ニコッ」の人は周りから好かれ、信頼されます。「ニコッ」は考えてできるものではありません。反射的にできるようにならないといけないのです。雲雀丘学園の園児、児童、生徒は「あいさつ運動」の中で「目があえばニコッ」を全員ができるようになってほしいと思います。教職員もぜひ子供たちができるように指導してください。

さて夏休み前でしたが、サントリー人事部から嬉しい話を聞きました。来年大学卒業生のサントリーへの就職ですが、学園卒業生の内々定があったとのことでした。人事の担当者に聞くと採用の決め手は「周囲に対する感謝の気持ちが強く、好感の持てる笑顔も素敵で、採用に出会った人事部の若手からも非常に応援されていた」とのこと。

多分、この「雲雀っこ」も素敵な笑顔で周りを魅了し、応援されるまでの味方につけたに違いありません。

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通学途上の百日紅(サルスベリ)

(2019.8.9)

2019年08月08日

「『生き残るには変わるしかない』大森先生へのお返事③」

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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「現役教員に逆戻り」とのお話、素晴らしいではありませんか。定年なんてくそくらえ。働ける間は働いて社会に貢献するのがこれからの生き方と思います。昔は定年と寿命が近いものでした。平均寿命が男子81才、女子87歳を超えた今は、それなりの社会制度なり生き方が必要だと思います。

さて、大森先生と同様、今年の進学実績は見事の一言に尽きます。「やれることはすべてやる!」この言葉のもと高3の学年団が一致団結してほかの先生方も巻き込んでの総力戦でした。学年主任を先頭に目の色が変わっているのがよくわかりました。

先生のお話のように今後は卒業生の半分くらいが国公立という数字を一つの安定的な目標にして考えたらいいと思います。これが大変な数字だとはよくわかりますがそのために何をしたらいいかを数年のレンジで考えればいいのではないでしょうか。

「企業で10年間右上がりの成績を出すには」とのご質問ですが、これは前年と同じことをしないことです。同じことをしていて前年より良くなることはありません。昨年やったことはすでに劣化しています。以前ある大学の先生方にお話をさせていただいた時、「企業と学校の違いはどこですか」との質問を受け、私は「学校は前年と同じことをしないと注意されますが、企業は同じことをしているとどやされます」とお答えしました。

マーケットは日に日に変化し、その変化は加速度的です。また日本は成熟経済に入っていますから規模の拡大の恩恵は受けられません。変わるしかないのです。来年のセンター試験まで半年を切りましたが、守りに入らず攻めて攻めて攻めまくってほしいと思います。販売会議の話のようになってしまいました。

過日学園の若手の先生6名がサントリーで企業研修を受けました。私は先生方には企業マインドが必要と思っていますが先生はどのようにお考えですか。私は大森先生にかつて「先生は企業に入っていても成功する人物」と評したことがありますが覚えておられますか。
それともう一つ。件の「お化けキュウリ」は生物学上、どうして誕生したのでしょうか。
(2019.8.8)

2019年08月05日

「『晴耕雨読とはいかず』大森先生のお返事 ②」

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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雲雀丘学園 常務理事・学園長
  岡村美孝様
 ご無沙汰いたしております。
退職前に、5月下旬ごろからとのお話でしたが、ご連絡がなかったのもですから、実は立ち消えになったかなとひそかに安どしておりました。
そこは、岡村常務理事、立ち消えにはされませんね。

4月から、電車とバスで片道1時間かかる、私立のT校に週4日午前中だけの非常勤講師をし、あとは自宅近くの空き地を借りて家庭菜園を始めました。農業は前中尾校長の影響です。年金をもらいながらの晴耕雨読の生活にあこがれていたのですが、それも4か月足らずで、この8月1日から契約制専任となり、教頭補佐を命ぜられ、現役教員に逆戻りです。
20190805-1.jpg 家庭菜園の収穫がおろそかになり、写真のようなお化けキュウリになってしまいました。高校教科書執筆の方は免除され、監修役ですが、問題集執筆はまだしています。頼まれたことには「NO」と言わない主義でやってきて、これが今までの幸運につながっていたのかもしれませんが、雲雀丘学園より難しい環境での新たなチャレンジです。教えている生徒は、純朴で気の良いところは、雲雀丘学園の生徒によく似ていますが、学習面ではなかなか厳しいところがあり、彼らに学ぶことの面白さを伝え、学びに妥協しない姿勢を作り出すことに現在苦戦中です。それに比べると、雲雀丘学園高等学校の今年の大学進学実績は、京都大学現役4名、国公立大学148名、私立大学も難関大学の合格者が増え、素晴らしいですね。退職するまでに、300名近い卒業生がいるわけですから、その5割の150名は国公立大学合格できる学校にはしたいと、思っていましたので、退職の時にその実現をみて、うれしい限りです。10年前に御学園に赴任した時は、国公立大学合格者が現浪併せて25名でしたので、隔世の感があります。この10年の間で、国公立合格者数は6倍に伸び、東京大学文Ⅰ、理1、理3、京都大学医学科が現役合格するなど、奇跡的ですし、長年進路指導をやってきましたが、全国でもそのような学校を私は知りません。昔の雲雀をご存知の方は、いったい何をしたのか、勉強ばかりさせて、雲雀の良さをなくしてしまったのではないかなどとおっしゃっていますが、人間教育の賜物が、学力向上につながっただけだと思います。そのあたりのことをご存知の方は、雲雀丘学園は素晴らしい教育をしていると、羨望も込めておっしゃっています。ただ、学園中学・高等学校の偏差値が上がってきたので、卒業生の方から自分の子供が入りにくくなったと冗談交じりにお話の方もおられますので、あとはよろしくお願いいたします。
 さて、次の雲雀丘学園が目指すのは、MIT,ハーバード、ケンブリッジでしょうか?
精華大学は1年ほどの留学ですが、卒業生で新潟大学に行った生徒が実現していますので、世界に羽ばたくとしたら、このあたりですね。近いうちに実現できるのでは・・・・。
 岡村常務理事は、今年の進学実績をどのように評価されておられますか?企業で10年間、右肩上がりの業績を出していくうえで、本部長クラスの方々が気をつけておられることってありますか?
                                              以上
(2019.8.5)

2019年08月02日

「大森先生お元気ですか ①」

~雲雀丘学園常務理事・学園長 岡村美孝~

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大森先生
お元気ですか。先生のことですから明るく元気に、そして前向きに周りの方々に元気の出る話や希望が湧くお話をされていることと思います。
またこの度は兵庫県功労賞のご受賞おめでとうございます。永年のご功績が実りました。私も大変うれしく思っています。

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                        受賞される大森先生

さて雲雀丘学園を退職されてから4か月がたちました。早く連絡をしようと思っていましたがついつい今になってしまい申し訳ありません。先生がおやめになるとき、学園での思い出話をぜひ後進のために語っていただきたいと申し上げておりました。私は会社経験がありますので、学校の経験と企業の経験が語り合えたら楽しいですね、とお約束していました。

夏休みを迎える今、ぜひそのことを実現したいと思います。語り合う場はわたくしの「学園長ブログ」です。私がいくつか質問をしますのでまずはそれに答えていただくことから始めたいと思います。いずれは往復書簡の形で自由に語り合えればと思います。このブログは意外と幅広くお読みいただいていますのでそれぞれのお立場で、読まれた方が参考になったと思っていただけるなら有り難く思います。

それではぶっつけ本番で参ります。楽しく愉快に。

Q1.現在何をされていますか、生活は変わりましたか。
Q2.今年の学園中高の進学状況をどのように見ていますか。
Q3・学園を離れた立場でみて、周りの人は現在の学園をどのように見ておられますか。
                                              以上
(2019.8.2)